投稿

6月, 2019の投稿を表示しています

農大とホフストラ大学

イメージ
今日は東京農業大学で落語をして来ました。 不思議なもので東京生まれ東京育ちの私ですが、 受験でも仕事でも農大は初めて、しかもニューヨークのホフストラ大学のウェルチ先生に呼んで頂くという御縁で、ホフストラ大学の学生、農大の学生のミックスでしたので、日本語と英語を織り交ぜての、いわゆるルー大柴さんのような枕から日本語での本題となりました。質疑応答はWelch先生に通訳もして頂きながら、江戸時代の家父長制と人口の男女比から、吉原の成り立ちや花魁の定義などをお話しました。 公演後は先生方とランチですが、話題は講義でもお話したオハイオ州立大学の図書館で見つけた「アメリカ人の恋(ラブ)」という新作落語で盛り上がる。これは今僕が書いている論文のテーマにもいいのでは、とヒントを頂きました。農大ではランドスケープも専攻がありますので、先生に伺う江戸の土地の広がりとしての発展の経緯は興味深く、僕も浅知恵ながら江戸城近辺の埋め立ての話や庭について話をお聞きしました。落語という一つの分野を通して、様々なジャンルと繋がっていく知的な遊び、研究って歳を追うごとに楽しみが増している気がします。ジョブズさんが言ったように知識の点と点がいつかは繋がるというアハ体験はランチにはピッタリの心地良さでした。 世田谷でするジャクソンハイツ事情ってのも乙です。

#KimOhNo について考えた。

着物がKimonoになり矯正下着に形態を変えることについてまず、異文化間で正しく文化を移植出来るのかを考える。 イタリアではナポリタンはパスタではないし、日本にあるラーメンも餃子も中国のそれでは無いし、海外のsushiもおおよそ違う物だ。 そして問題の着物であるが、今どれほどの日本人が正しく着物を着る事が出来るであろうか、また日常的に着て過ごしているであろうか。 僕の見る限り、京都や鎌倉で浴衣を着物として観光客に着せて商売をしているし、花火大会でツンツルテンの浴衣のカップルや新成人の異星人のような紋付姿もあまり美しい着物文化と思えず、日本人自体の着物に対する理解も薄れていると感じる。 今回の事に関して言うと、インフルエンサーが自分の商売目的に自分の名前「Kim」が入っている事を理由に矯正下着にKimonoと名付けた所に大きな問題がある。これは形状が似ているナポリタンやラーメン餃子寿司とはレベルが違う。 まず着物はunderwearでは無い。 しかしながら、先ほど述べたように日本人自体に着物に対する理解も興味も正しく持ち合わせていない人が多いように思うので、きっと今回の件にも何も抗議したりしないであろう。着物に興味のある世代の方はインスタをやったりSNSで情報を得ないので声の上げようも知らないかも知れない。 僕が一番に気に病むのは、これから海外へ日本の文化を正しく大きく伝えていく活動を志す中で、本体である日本で伝統文化の理解が歪んで来ている事だ。浴衣と着物の区別すら付かない人が落語業界近辺にもいる。十二単を着物だとは全く思わないが、長らく日本人が一般的に着物だと思っている最大公約数がここ何十年かで変わって来ている、むしろ薄れて無くなってきているように思えるのだ。 海外のファッションでもそうだが、お洒落でいる事には我慢を要する事もある。着物の手入れ、長襦袢の煩わしさ、季節への対応、これを含めて伝統文化だと思うから価値があり大事にする。 その価値観を日本人が共有出来るかどうかを確かめてから、改めて今回の着物騒動を考えたい。 矯正下着が着物でないと日本人は堂々と言えるのか。 今こそネットで日本を美しいと誇っている皆さんは立ち上がって、意見を言うべきではありませんか? 韓国や中国に対してじゃないと言えま